本文へ

高森町のインスタグラムアカウントへのアイコン 高森町のTwitterアカウントへのアイコン 高森町のFacebookアカウントへのアイコン
クローズ
SEARCH

検索

閉じる
ASSIST

閲覧支援

外国語
文字サイズ
小さく 標準 大きく
ふりがな
ふりがなをつける
読み上げ
読み上げる
閉じる

高森町の魅力「民俗芸能」

ホーム生涯学習歴史・文化・伝統芸能伝統芸能高森町の魅力「民俗芸能」

1、高森町の民俗芸能

高森町には、長い間続けられてきた民俗芸能がたくさんあります。

地域内が安全であることや、住んでいる人たちが幸せに暮らすこと、作物が豊かに実ることを願って行われています。

自分たちの地域や子孫を大切に想う気持ちを先人から引き継いで、将来に伝えることで、民俗芸能が形づくられてきました。


(下市田の獅子舞。子どもが獅子を曳(ひ)きます。)

「屋台獅子の特徴」

江戸時代には人形芝居、歌舞伎、囃子(はやし)屋台、煙火等が若者組を中心に行われ、明治時代以降は屋台獅子が盛んになりました。

屋台獅子は、獅子頭の後ろ側に広がる大きな幕に、演奏をするための屋台を組み合わせたものです。獅子の体内(幕内)には、獅子頭の舞方(舞う人)と、演奏をするお囃子が入って練り歩きます。

全国でも、高森町を含む周辺地域だけの、独特な獅子舞です。


(大島山の獅子舞)

屋台獅子の源流は、当町の「大島山の獅子舞」(長野県無形民俗文化財)と言われ、約900年前に始まったとされています。飯田下伊那地域周辺の約50ヶ所に伝承、模倣されています。町内には7ヶ所に伝承されました。大島山を原型としながらも、地域ごとに創意工夫された獅子舞を見ることができます。

2、子どもたちの参加

たくさんの子どもたちが民俗芸能に参加しています。それぞれの地域が持つ歴史・文化財に触れながら、隣近所の大人や子どもたちと一緒に活動することは、貴重な学びの場所になっています。

子どもたちは民俗芸能を通じて、地域や人・文化を大切にする、豊かな心を身に付けていきます。


(白髭神社の獅子舞。花踊りに参加する子どもたち。)

3、各地域の民俗芸能

高森町内の多くの地域に民俗芸能が伝えられています。地域が持つ歴史や文化を反映して、多様な舞や特徴があります。

地域ごとに行われている伝統芸能は、下の表をご覧ください。

各地域の民俗芸能
名称 行われている芸能 特徴
下市田の獅子舞 獅子舞 浦安の舞     3人の子ども(松王・梅王・桜丸)が獅子をひきます
吉田神社の獅子舞 獅子舞 浦安の舞     保育園児が獅子舞体験の披露をします
上市田の囃子(はやし)屋台 囃子       子どもたちが屋台を引き、笛・太鼓を演奏します
竜口龍神の舞 龍神の舞       親と子の龍がところ狭しと踊ります
大島山の獅子舞 獅子舞 陵王の舞     900年の歴史を持つ県指定文化財です
牛牧の獅子舞 獅子舞 義士踊り     忠臣蔵の四十七士の踊りは壮観です
泰山神社の獅子舞 獅子舞 花踊り おかめ踊り 狐踊り 様々な踊りがあり華やかです
子安神社の獅子舞 獅子舞 子ども神輿 子安太鼓   子どもたちが賑やかにおみこしをかつぎます
白髭神社の獅子舞 獅子舞 花踊り おかめ踊り   子どもたちによる花踊りやおかめ踊りが可愛らしいです
新田の虎舞 虎舞 子ども虎舞 狐踊り   迫力がある虎の舞です

 


(竜口龍神の舞。赤い子龍は、子どもたちが演じています。)

高森町教育委員会事務局では、地域の歴史・文化を後世に伝えていく民俗芸能の取り組みや、子どもたちが民俗芸能を通じて地域に関心や愛着を持つ取り組みを支援しています。

下市田の獅子舞

1、実施している団体

萩山郷土芸能保存会です。下市田区を構成する6つの地区を範囲として、保存会が作られています。

2、祭りを行っている場所

高森町下市田地区の安養寺、萩山神社を中心とした下市田区内

3、歴史・由来

下市田区で伝承される獅子舞は、かつて「安養寺の獅子舞」と呼ばれていました。安養寺はその昔、「下市田の荒神様」と呼ばれた森の北隣りにありましたが、1582年(天正10年)、伊那谷に侵入した織田信忠の兵火によって焼かれました。その後、現在の場所に移転したとされています。


(桜丸と獅子)

焼け落ちた荒神堂は再建され、寺の鎮守として御開帳が行われてきました。この時、安養寺で獅子舞が行われたのが、獅子舞の始まりとされます。お寺の過去帳には、徳川時代の1796年(寛政8年)から「獅子ヲ引ク事始マル」と記されています。

4、舞の意味や見どころ

下市田の獅子舞は、小学生3人(松王・梅王・桜丸)が獅子を曳(ひ)く童子を演じることが特徴です。歌舞伎に登場する童子であると言い伝えられ、江戸時代から明治の初めにかけてこの地域で盛んであった地芝居を反映したものではないかと考えられています。


(みんなで協力して囃子(はやし)屋台を萩山神社境内へ引き上げます)

歌舞伎「菅原伝授手習鑑(作者:近松門左衛門)」の内、「車曳きの場」では、松王・梅王・桜丸が主役となります。右大臣道真公は、左大臣藤原時平に妬まれて九州へ左遷されます。道真公に仕えた白太夫の子(松王・梅王・桜丸)が、仇を討とうと機をねらいます。時平が神社へ参拝した帰りを待ち受けて、一斉に切りつけ、見事本懐を遂げます。

仇である時平を獅子頭に見立て、切りつける動作につながっていると考えられます。


(右:桜丸、中央:松王、左:梅王)

祭りは2日間です。

1日目の宵祭りでは、荒神社で獅子舞を公演します。笛や太鼓の囃子(はやし)が鳴り響き、独特のリズムを刻むと、獅子頭が眠りから覚めたように動き出します。

2日目の本祭りでは、3人の童子が登場します。童子が寝ている獅子の前に立ち、獅子を起こした後、一斉に切りかかります。

このように、小学生3人によって演じる神楽系の獅子舞です。小学生が先導する獅子曳きの熱演と、獅子と勇敢に舞う姿が見所です。獅子曳きをする少年は、生涯厄をまぬがれ、幸せな人生を送ることができると伝えられています。

この他に、パースでの公演前には、紅華太鼓の演奏があります。

本祭りの途中での下市田区民会館、祭り終了後の萩山神社にて、餅・菓子投げを行います。

5、浦安の舞

下市田には6つの地区があり、毎年各地区から選ばれた巫女が、優美で華麗な浦安の舞を神殿で奉納します。「浦安」とは「心が安らか」という意味で、世の中が平和で穏やかであることを祈る舞です。

祭りの終盤の見どころで、神事舞の1つです。始まりは1940年(昭和15年)の皇紀2600年祭記念式典にさかのぼりますが、実際に奉納されるようになったのは昭和49年以降となっています。


(美しい浦安の舞)

扇の舞と鈴の舞の2曲があります。各地から選ばれた舞姫は、神代の身振りと手ぶりをしのばせながら、典雅で荘重に舞います。

舞手はかつて厄年(19歳)の女性が当たっていましたが、今では広く独身女性から選んでいます。近年では小学校高学年から中学生が演じることが多くなっています。

6、その他

3人の童子が履く草履(ぞうり)の作成講習会を2月中旬に行っています。

上市田の囃子屋台 NEW

1、実施している団体

上市田囃子屋台保存会です。上市田地区を範囲として、保存会が作られています。

2、祭りを行っている場所

高森町上市田地区の伊勢神社を中心とした上市田区内

3、歴史・由来

年代については不明ですが、古老の話では「すだれ」は関川辰次郎氏(天保10年生まれ)が編んだ物と伝えられています。大正4年の御大典記念事業として新しく作り替えられ、当時の青年会長(矢沢久衛氏)が先頭に立ち、屋台の身長のために働いたと言われています。


(屋台の中に人が入り演奏しながら、地区内を練り歩きます)

大正の初め頃、塩沢清松氏がすべての楽器演奏ができると言う芸達者な人で、各地の曲を聞いて良いところを取り入れ、編曲をして現在のものに仕上げたと言われています。


(子どもたちがたくさん屋台を曳(ひ)きます)

当時、上市田囃子屋台と言えば近隣でも評判になるほどの名調子であったと言われています。明治、大正、第二次世界大戦中でも青年団員により囃子屋台は続けられてきました。その後は40名の男女によって受け継がれ、本祭りには区内を囃子ながら巡回をしました。


(囃子屋台の内部)


(三味線)


(太鼓)

昭和27年頃には会員が減り女子青年団が協力していました。その後、いつとなく影をひそめたが、昭和43年当時の区長下平要司氏の元、復活をしました。その後再び、会員が減少して存続の危機となり、昭和62年の町政30周年記念芸能大会をきっかけに、上市田囃子保存会として独立して、現在に至っています。


(地区内の所望(希望)する家庭の前で演奏します)

4、舞の意味や見どころ

大正年代に北原幸雄氏は、次のように書いています。上市田の囃子屋台の魅力を伝えています。

祭りは幼い子どもから老若男女、部落(地区)をあげてのものだった。春祭りは寒い冬から脱却して、春の息吹の下になんとなくほっとした気持ちと農作業がこれから始まるという気持ちと、今年こそと言う意気込みがミックスされて、浮き浮きした雰囲気の中でのお祭りであった。飾りつけも充分で、囃子屋台は祭りそのものの象徴であった。


(子どもたちにとっては、休憩中のおやつも楽しみのひとつ)


(祭りが盛り上がり、踊り始めたよさこいソーラン)

5、演じる曲目

吹っ切り~宮神楽 玉桂 呉竹 下り藤 猿囃子 数え唄 追馬

竜口龍神の舞

1、実施している団体

竜口龍神の舞保存会です。竜口地区を範囲として、保存会が作られています。

2、祭りを行っている場所

高森町山吹竜口地区の八幡神社・建御名方神社を中心とした、竜口地区内

3、歴史・由来

1、舞ができるまで

竜口地区の中には二つの神社があり、古来春秋の例祭が行われてきていますが、両社とも、伝承される神楽も、御輿(みこし)や獅子舞等の祭事もなく過ぎてきていました。

昭和62年に「竜口の名にちなんだ、地域住民みんなが楽しめる伝統芸能を興そう。」という声が、住民参加の町づくりという町政5ヶ年計画の方針と相まって、次第に高められていきます。


(緑色の龍が母親。赤色の龍が子ども。)

やがてそれは、町のコミュニティ事業の一環として位置付けられ、地区一丸となっての協議と研究の結果、老若男女すべての参加により、楽しく有意義な展開が期待できる芸能として、「竜神の舞」の創造となっていきました。

初公演は、昭和63年11月でした。今は、二体の「龍」を中心にしたこの「龍神の舞」は、「竜口地区」の住民の心を融和しひとつにする、なくてはならぬ存在となっています。


(龍神の舞の前に子どもたちが踊ります)

現在は、地区の平和や繁栄を祈念し、二つの神社の春の祭典に合わせて「龍神の舞」を奉納し、地区住民の所望に応じ演舞を行っています。また、「天白狭ほたる祭り」等各種イベントにも参加しています。

4、地区に伝えられてきた伝説

竜口地区の東側には天竜川があります。大雨が続くと、度々洪水となって、多大な被害をもたらしました。このため、人々は神に祈り、人力を尽くして、堤防を守ってきました。

目の前で濁流にのみこまれるわが村の惨状を見た母と子が、身を挺して荒れ狂う流れに飛び込み、やがて二体の龍と化してこの窮状を救ったという伝説が生まれ、地域の人々に語り伝えられてきました。


(希望(所望)する家庭へ出向いて舞います。家庭が円満で繁栄すると言われています。)

「龍神の舞」は、「竜口」の地名と語り伝えられた伝説にちなんで創られ、今日に至ったものです。

5、舞の意味や見どころ

「舞」は、基本的なストーリをもとにして「陽」「月」「乱」「おさめ」の四つの曲を、それぞれの舞のイメージに合わせて繰り返し演奏し、舞の移り変わりの間をドラで区切るようになっています。


(囃子)

演舞する場所の広さによって、各曲の繰り返し回数は異なりますが、大略、次の構成となっています。

  1. 陽(手踊り)8回
  2. 月(月の舞)3回
  3. 陽(親子龍の舞)
  4. 乱(月と親龍、子龍の舞)10回
  5. 陽(親子龍の乱舞)10回
  6. おさめ(親子龍の穏やかな舞)8回

所要時間は15~20分位で、場所に応じ組み合わせが自由に出来ます。

演舞の人数も最少は、親龍8名、子龍は10名で舞うことができます。

6、竜口地区の紹介

竜口地区は、北東に台城の丘を背にし、東西に長く伸びた平地に、竜口・小沼・原城の三つの里をかかえています。自然に恵まれて土地は肥え、住む人の情けも厚い豊かな地域です。

しかしまた、地区の前には伊那谷の母なる大河天竜川が、岩を噛んで流れ下っており、その地形は、あたかも一体の龍が東の空を望んで天駆ける様に似ています。地区名「竜口」の名付けのゆえんとなっています。


(子龍。中学生が舞います。)

事実、台城の段丘によって狭められた地形から押し出された天竜川は、流れが一層強く、いったん大雨が続くような時がやってくると、溢れた出水は、堤防を乗り越え、多大な被害をもたらしました。

このため、現在の万年橋の上流側には水神様が、下流側には九頭竜権現がまつられています。その間に三角ばね(聖牛)※を造って、人々は天を仰いで神に祈り、人力を尽くして堤防を守ってきたのでした。

竜口地区が持つ歴史や自然、そこに住む人々の熱い想いから、龍神の舞が創られたのです。

※三角ばね(聖牛)- 水の勢いを弱め堤防を守る工作物

牛牧の獅子舞

1、実施している団体

牛牧郷土芸能保存会です。牛牧地区を範囲として、保存会が作られています。

2、祭りを行っている場所

高森町牛牧地区の牛牧神社を中心とした牛牧区内

3、歴史・由来

1、獅子舞

歴史は古く、明治十年(1878)ころ、隣の大島山地区から伝授されたものです。大島山瑠璃寺の獅子舞は、伊那谷に伝わる獅子舞の源流といわれ、天永三年(1112)から奉納されているようです。大島山から最初に指導を受けた牛牧の人達は七人ほどで、民家の二階などを借りて、熱心に練習しました。

(子どもたちが囃子屋台を引いていきます)

獅子舞の主役は「盂闐王」(うでんのう)で、獅子頭の操り方などを含め、指導者をお師匠様と呼んでいます。
牛牧の獅子頭と太鼓は、明治十二年(1879)に、名古屋の丸屋伊兵衛から購入したものです。王様と阿直岐(あじき:赤面)巫別(かんなきわけ:白面)は飯田町の仏師井出松三郎の作で、他の盂闐王と関羽、張飛、猿、ひょっとこの面には「春行」の名があります。


(盂闐王が獅子を曳(ひ)きます)

飯田のお練り祭りで有名な、東野の大獅子は、大正九年(1921)に牛牧の人たちが教えたものです。

2、囃子

牛牧神社の春祭りには、獅子舞と同様に「お囃子」も奉納されています。いつの時代に誕生したのか記録、言い伝えもありません。獅子舞と同じ、明治初めの事と推測されます。


(囃子屋台)

囃子の人数は12人で、正面前列に大太鼓1人、小太鼓2人、2列目に笛3人と三味線3人、後ろに鼓と拍子木役2人、おおかわと笙役1人です。昔は青年団の年長者が出演、壮年団の方々の時代もありました。屋台は総檜作りで、朱塗りの手すりや車が付いていて、移動ができます。現在の屋台は、昭和62年(1987)に造り替えたものです。


(子どもたち(右側)も笛を吹きます)

お囃子は「宮神楽」「玉桂」「浮舟」「浮橋」「大間」の順で進められます。

3、義士踊り

江戸期に、飯田荒町に滞在中の旅役者によって「忠臣蔵」の舞台が伝えられたと言われています。当時の牛牧では明治時代まで歌舞伎が盛んに行われており、「赤穂浪士 忠臣蔵」は好んで上演される人気演目でした。


(平成28年の飯田お練りまつり)

大正天皇の御即位慶祝(大正4年)を機に、現在の踊りの基となる四十七士の踊りが実現し牛牧義士踊りが出来たのです。それ以来、戦前4回の飯田お練り祭りに出演しましたが、戦争での中断がありました。昭和31年春のお練り祭りに見事復活して以来、平成28年甲年の飯田お練り祭りで連続11回(60年間)の奉納上演となります。

これまで、高森町内各行事や秋祭り等での上演は勿論のこと、信州博(1993年)や東京高輪泉岳寺で2回・赤穂大石神社三百年祭での奉納上演でも絶賛を浴び、平成18年に高森町の登録文化財として指定され、全国にもその名を誇っています。

4、伝統芸能を行う場所の紹介

牛牧神社

【創始祭神】
永享十二年(1440)次郎城主牛牧氏は、信濃守護小笠原政康に従い、下総国結城城攻略の戦役の従軍のおりに武人の守護神たる八幡宮を祭祀しました。
その後何時の世か諏訪明神を合祀して今日に至っています。

(牛牧神社。桜がきれいです。)

【沿革】
本殿再建元禄三年(1690)、葺替再建寛保二年(1742)、宝暦八寅年(1758)、安永四未年(1775)、寛政元酉年(1789)明治二巳年(1869)、明治六年深沢山神合祀明治十三年(1880)、村社八幡宮を牛牧神社に改称される。

【幟旗】
「赫威誅横邪」「鴻恩福正直」のお旗は、明治十二年西川春洞の筆になるものです。
「かくい、おうじゃをちゅうす」「こうおん、せいちょくをふくす」
「正しいはっきりした力は、よこしまな(悪い)ものを成敗する」
「大きな恩は、正しいもの(幸せ)をもたらす」

【例祭】
春は四月、秋は十月に行われています。

【獅子舞】
春の例祭には獅子舞を奉納します。獅子舞の盂闐(うでん)王は中国新疆省ホータン地方 盂闐国の王で、この警護役に三国志の関羽と張飛を配し悪魔祓の物語りに仕組み、獅子舞神楽として奉納します。


(牛牧神社前での義士踊り)

【大杉】
高さ40m 樹囲6m 枝下20m 樹齢約600年と推定され、樹姿の綺麗なこと無比の名木です。

【石燈籠】
嘉永元年(1848)戊申仲冬吉辰建立(二基)

【大鳥居】
高さ4.5m 明神鳥居 大正13年建立

【社標】
宇佐神宮宮司宇佐公熈筆 大正13年建立

【社前石燈籠】
左 享保11年丙午11月吉日(1726)
右 宝暦5年乙亥8月(1755)

【忠魂碑】
大正7年 福島安正筆

【狛犬】
平成元年奉献

【瑞垣】
明治44年奉献

【義士踊】
忠臣蔵47士の義士踊り大正4年創演。招待講演 7年毎御柱祭に奉納

詳細については、牛牧区のホームページをご覧ください。

牛牧区ホームページ(獅子舞・囃子)

牛牧区ホームページ(義士踊り)

牛牧区ホームページ(牛牧神社)

 ↑

クリックすると、牛牧区のホームページへ移動します

白髭神社の獅子舞

1、実施している団体

上平郷土芸能保存会です。山吹の上平地区を範囲として、保存会が作られています。

2、祭りを行っている場所

高森町山吹上平地区の白髭神社

3、歴史・由来

1、獅子舞・おかめ踊り

古老の話によると、現在の形での舞は、大正初期に隣接する山吹駒場の子安神社から伝授されたものではないかと言われています。190年余り前の江戸時代天保年間に始まったとする説もあります。

瑠璃寺型(高森町大島山地区)で大切な役を演じる宇天王が形を変えておかめ踊りになっています。かつては上平地区内の中学2年生の男子のみで踊られていましたが、現在は男女を問わず小学校5・6年生が舞っています。


(獅子舞とおかめ踊り)

昔は、25歳までの青年会(男子)が獅子舞を担当していました。おかめ踊りの師匠役と祭り当日の片口(ひょっとこ・2名)は青年会の新入会員が担っていました。近年では、年齢・男女の制限なく、保存活動に携わっています。鬼の役2名は、昔は42歳の厄年の者が務めていましたが、今は年齢にこだわらずに行っています。

例祭を行う日は、古くは4月20・21日でした。近年では営農作物や生業の変遷に伴い、4月の第1土・日曜日に開催される例が多くなっています。


(花踊りに参加する子どもたち)

2、囃子(はやし)・花踊り

古老の話によると、大正12年頃、松川町上大島の桜山不動尊・大島神社から伝授されたものではないかと言われています。

花踊りの踊り手は、昔からほぼ変わらず上平地区内の小学校2・3年生です。


(かわいらしい花踊り)

昔は、囃子(はやし)を担っていたのは地区内の26~30歳の男女です。現在は年齢・男女の制限なく、保存活動に携わっています。囃子の笛、獅子の太鼓、花踊りの師匠に、女性会員が在籍しています。

4、舞の意味や見どころ

1、見どころ

花踊りは、きれいな衣装と共に稚児化粧で華麗な姿が演出されます。

おかめ踊りは、腰元風の帯の着物姿でおかめの面を被り、優雅な舞が披露されます。

獅子舞は最初に舞い始める「引き起こし」で、急に飛び出し暴れるさまは見ごたえがあります。そして、大門に入り徐々に収まり静かになります。この細かな技が自慢です。

2、獅子舞の曲目

獅子舞の曲目は 1.岡崎 2.新金 3.大門 の3曲で構成されています。

岡崎は演奏のみですが、一時期、泰山神社の氏子から教わった狐踊りが付いたこともありました。


(囃子に合わせて踊ります)

囃子は 1.呉竹(演奏のみ) 2.吉野 3.保引(ほっぴき) 4.岡崎 5.大間(演奏のみ) 6.通りばやし の6曲で現在は構成されていますが、古くは演奏のみの曲目は他に4~5曲あったとされています。

歌詞については、大門の一部が簡略化されたのと、吉野の冒頭の部分を花開く春のイメージが浮かぶ内容に変更しています。

5、伝統芸能を実施する場所の紹介

白髭神社の春季大祭に境内で奉納しています。

白髭神社の主祭神は猿田彦神で、長寿永生の神様とされることが転じて大戦中は毎月、戦勝祈願祭が行われ、山吹・下平両駅から参拝者で長蛇の列ができたと言われています。

6、その他

青年部は屋台を出し、綿菓子、焼きそば等を提供しています。また、玩具類の販売をしています。特に子ども達に喜ばれています。

カテゴリー